読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

CLOSET

kewpieの個人ブログ。

最近ぶらりと行った場所とか

DIARY

近場の範囲内でなら車で結構出かけていて、いいなーと思った場所がいくつかあった。

梅林公園

梅まつりが開催されていたので行ってきた。なかなかの広大な敷地に白・ピンク・黄色の梅が咲き誇っている。田舎なので、梅が多いわりに人が少なくてゆっくり楽しめる感じでよかった。犬もOKとのことで一緒に散歩しました。

f:id:kewpiedesign:20170329214353j:plain

f:id:kewpiedesign:20170329214143j:plain

f:id:kewpiedesign:20170329215914j:plain

写真は似たような日の丸構図ばかりなので省略。初めて行ったけど穴場という感じでよかった。近いし来年も行きたい。

舞鶴

この間ブログに書いたけど、久しぶりに海を見れたこともありなかなかよかった。舞鶴は昔から車でよく行く場所ではあるけど、行くと決まって曇天か雨であることが多く、「弁当忘れても傘忘れるな」という標語まであるくらいである。そのせいか陰鬱なイメージがあり、あまり進んで行きたい場所ではなかった。特に戦前から戦後までの軍関係の施設や史跡が多い東舞鶴は、天気の悪い日に行くととにかく気分が落ち込む。BGMには岸壁の母が流れてくる。だけど、この間いつぶりかというくらいに晴天下の舞鶴湾を拝むことができて、非常に晴れ晴れしい気持ちになった。晴れている日の舞鶴はかなりよかったです。天気は大事なので調べて行きましょう。

三方五湖

別に行きたいわけではなかったのだけど、親がドライブに行こうと言うので家族で行ってきた。三方五湖は福井の小浜を過ぎたあたりにある。原発が集中する海沿いを走る上に、道中はほぼトンネルであり、トンネルルートと名づけてもいいくらいトンネル連発区間が続くので、トンネルが苦手な自分からすると地獄のようであり行き帰りは必死に耐えていた。発作の関係で若干閉所恐怖症気味になるので、トンネル内に入るとなんとも言いようのない気分の悪さと息苦しさが続く。海は綺麗なのでトンネルさえなければ…。

特にこれといって観光するわけでもなく、三方五湖PAに行くだけ行って帰ってきた。三方五湖はちらっと見ただけなのであまりどういう場所なのか分からなかった。

f:id:kewpiedesign:20170329214503j:plain

f:id:kewpiedesign:20170329214525j:plain

夕陽は綺麗だったけど、三方五湖の地形はよく分からず微妙だった。春休みの子どもが多かった。

自分の用事で出かけるわけではないにしても、家に引きこもっていても行動範囲が狭くなるだけなのでなるべく出かけていきたいですね。発作が起こったとしても、まあ生きて帰れればいいやくらいの心持ちでいたい。頻繁に外出していると慣れて自信も出てくるし、運動不足解消にもなるし、なるべく外に出ていきたいなと思います。

海の色

DIARY PHOTO

今日は通院に京都へ行くつもりだったのだけど、諸事情でキャンセルになり、舞鶴に用事が出来たので、久しぶりに舞鶴へ行ってきた。京都とは真逆の方向である。

舞鶴は去年以来で一年ぶりくらいだと思う。高速道路を使えば30分ほどで行けるのだけど、機会がないと行かないので行く頻度はさほど多くない。余談だけど、高速道路はやっぱり苦手である。前はなんともなかったけれど、病気になってからは少し苦手になった。

舞鶴は東舞鶴と西舞鶴に分かれていて、なんだかおもしろい街である。西はほのぼのとした城下町で、東は軍港のイメージが強い。五老ヶ岳という山を境に市街が東西に分断されているのがユニーク。

海が見たい気分になったので、前島埠頭というところに行って海を見てきた。

f:id:kewpiedesign:20170324193954j:plain暴風が吹きすさんで、波は荒立ち、穏やかそうな見た目とは裏腹に真冬の日本海の様相だった。内陸に住んでいるので、海沿いがこんなに寒いとは思わず、完全に油断していた。新日本海フェリー乗り場が横にあるのだけど、そこから降りてきたと思わしきロシア人のカップルは全然平気そうな顔をしていた。やっぱり寒さに慣れているのだろうか。

埠頭には、時々車が止まっては去っていったり、おじさんが散歩をしに来たりする。なんだか、やっぱり海沿いの雰囲気というのはいい。自分の街にはない景色が新鮮だ。

f:id:kewpiedesign:20170324194835j:plain

f:id:kewpiedesign:20170324194922j:plain

f:id:kewpiedesign:20170324194850j:plain

f:id:kewpiedesign:20170324194215j:plainバケツ一つですら、妙に絵になる。

f:id:kewpiedesign:20170324200808j:plain

f:id:kewpiedesign:20170324194023j:plain天橋立に行ったとき、その海の色に驚いた記憶がある。それまでは、海と言ったら深い青色のイメージだったのだけど、日本海なのに沖縄の海のような、綺麗なターコイズブルーの海を見て、それまで持っていたイメージが覆された。この地域の海の色は美しい。春ですらこうなので、夏の海なんてそれはそれは綺麗に違いない。

f:id:kewpiedesign:20170324211229j:plain自分の頭スレスレをトンビが飛んでいた。鳥を見るとあんなに気持ちよさそうに空を飛べていいなあと思うけれど、鳥は鳥で大変なんだろう。

新日本海フェリー。ここから小樽までフェリーで行ける。船は乗ったことがないけれど、きっと船酔いすると思う。

f:id:kewpiedesign:20170324194533j:plain何気に初めてまじまじと見た、東舞鶴駅。

f:id:kewpiedesign:20170324200651j:plain舞鶴の街並み。雰囲気がどこか荒っぽくて雑然としていて、いかにも日本海側の街という感じだ。いつかまた、この街並みをじっくりと味わいながら歩いてみたい。

f:id:kewpiedesign:20170324194710j:plainこういう街を撮るとき、いつもiPhoneでは上手く撮れなくてがっかりする。レタッチでごまかしているけれど、やっぱりちゃんとしたカメラがほしい。自分の写真を撮る技量がまだまだだから、言い訳にしか聞こえないけど。

今度は夏の舞鶴を見たいなあと思いながら、自分の住んでいる街へと帰った。車で30分しか違わないのに、見る景色は別世界で、まだまだ色んなものを見たいなあと思う。

なぜ、寿司なのか

TEXT

最近は重ための日記が続いていたので、気分転換にふと疑問に思ったことを書いてみようと思った。

Web業界、というかIT業界の人は、よく寿司を食べているイメージがある。Twitterや、Instagramのタイムラインでは、ほぼ毎日の頻度でシェアされる寿司の画像が流れてくる。それが特別どうこうという話ではないのだけど、あるとき、なぜみんなそんなに寿司が好きなのだろう?と疑問を抱いた。ちなみに、自分がWeb業界でアルバイトをするまでは全くそんなことは気に留めたこともなかった。

もともと自分があまり日常から寿司を摂取しないタイプなのだけど、アルバイトをしているとなにかにつけて寿司の姿をよく目にすることになり、世の中ではこんなに寿司が消費されているのか…と、それまでの自分の食生活とのギャップに驚いた。自分が住んでいる街は、寿司屋もあまりないし、回転寿司屋なんかは隣の街まで行かないと見かけない。寿司というと、スーパーで半額で売られているパックのイメージだった。おめでたいときに寿司を食べる習慣も家ではあまりなく、母が仕事の帰りにお惣菜と一緒に買ってくる存在であった。焼肉も同じで、あまり食べに行ったことがなかった。

歓迎会、リリース記念、ただ単にご飯を食べに行ったとき、そこにはいつも寿司がいた気がする。家では滅多にお目にかかれない寿司。スーパーのパックではない寿司。スマホでシェアされる寿司。気がついたら、寿司はいつも主役だった。

そう思えてからは、SNSに流れてくる寿司の存在が気になるようになった。寿司、スシ、SUSHI、🍣。なんだか特別な存在に思えてくる。インターネットを象徴する存在、寿司。なにがそんなに人々を惹きつけるのだろうか。考えるな、感じろというものなのだろうか。理由は分からなくとも、寿司の画像を見ていると、確かに寿司が食べたくなってくるのである。ああ、マグロの寿司が食べたいなあ。

一年

DIARY

早いもので、去年から一年が経つ。この一年は自分にとっての戦いだったなあ、となんとなく思う。なかなか思うよう自分をコントロールできなくて、調子の良い日もあれば悪い日もあり、生きていて良かったと思う日もあれば死にたいくらい辛い日もあって、嵐のような一年だった。

特に秋から冬にかけてはメンタルの調子がすこぶる悪く、一歩間違えたら本当に死を選んでいたかもしれないような瞬間が何度も訪れて、危うく音を上げそうになった。だから、自分にとって今生きているのはある意味奇跡である。どんなに辛さに飲まれて溺れても、生きていれば必ず季節は進んで、春が来るんだなあ、と心から思えるようになった。去年までは、そんなこと考えたこともなかったな。そういった話を聞いても、どこか他人事に思っていた。

この一年で、自分との向き合い方や考え方も変わった気がする。もともと自己嫌悪がひどい性格だったのだけれど、あまり嫌悪しなくなったかな、と思う。悔しい、と思ったことはいっぱいあったけど、嫌悪しても悪くなるだけだから、どんなに過去の自分が醜くても嫌悪はしない。そう思えるようになった。書こうとすると思い出せないだけで、変わったことはいっぱいある。

一番考えさせられたのは自分の体について、もっと言うと、重たくなってしまうけど命についてかもしれない。たまたま身内の不幸が重なったり、好きなアイドルが亡くなったりして、それ自体は本当に悲しくて辛かったのだけれど、それをきっかけに生きるって全然普通じゃないんだな、と思わされた。発作自体はいまだに受け入れられないのだけど、生きるか死ぬかの二者択一を迫られるような発作に襲われたあと、それがすうっと消えていくときはいつも「ああ、自分って生きているんだな」と実感させられる。逆に言うと、その瞬間があるから、生きてられるのかな。不安や辛さは無限に続くものではないって実感できるから。

今はこの季節を迎えられたことに対して妙な晴れ晴れしさがあります。冬は長かったなあ。自分が自分で居られるまま、冬を越すことができてよかった。一年でなにか区切りがつくわけではないけれど、今の感情を残しておきたい。もうすぐ春がやってくるから。

f:id:kewpiedesign:20170306214853j:plain

また一から

PD TEXT

2月に入る前からなんとなく調子が悪く、そのままずるずると2月の中旬まで来てしまった。ここ数ヶ月はだいぶ発作に対して慣れてきて、冷静に受け流せるようになってきていたので、それに伴って深刻な発作の頻度は減っていた。それなのに、ふとしたきっかけでまた発作を「怖い」と思ってしまって、そこから調子が崩れはじめてしまった。

パニック発作を起こしたとき、「怖い」だとか、「不安だ」だとかいうふうに感じると、余計に悪化する。なぜなら、本来不安や恐怖と感じるべきでない状態に対して、脳がそう感じるように誤作動を起こしているからだ。本来不安でないはずのシチュエーションに不安を感じて発作を起こしたとき、それに対して「怖い」と思うと症状はどんどん悪くなっていき、急にジェットコースターの頂点から真っ逆さまに落ちるような体験が始まってしまう。偽の恐怖が本物の恐怖にすり替わってしまう感じだ。そうならないために、一年かけて発作の際に覚えた対処法は「動じない」ことだった。たとえ実際に動悸が起きていても、窒息しそうな息苦しさがあっても、冷静に受け流す。そうすることで発作に対して過剰に反応しなくなり、必要以上にダメージを受けなくて済む。この対処法で今までなんとかやってきたのだ。

それなのに、ここ最近は病気になったばかりのころと同じように、発作が起きることを過剰に怖がってしまうようになり、どうしたものかと思った。怖がれば怖がるほど、日常生活がまともに送れなくなってしまう。発作を起こすタイミングがシチュエーションや場所を選ばなくなる。車の中で、家で、食事中で。困ったものである。

ただ、なんとなく冷静に対処できるコツはもう掴んでいるので、またそれを実践しようと思った。車の中で、ああこれは来そうだな、と思ったとき、「無になる」ことをイメージした。怖くない、不安ではない、すぐに収まる、死なない。これらを全てひっくるめて「無になる」というイメージ。ネガテイブに考えることをやめて、別のなにかに集中する。動悸や息苦しさは実際にあったものの、精神的には特にダメージなくやり過ごすことができた。ここでそのまま恐怖の波に溺れてしまうと、もっと苦しい体験をすることになる。

対処法を実践して効果を感じたことによって、また一から、今まで覚えてきたことをやっていけばいいのではないかな、と思ったら、スッと気持ちが楽になり、不安も少し減った気がする。体の扱い方は自分でコントロールできるし、もうゼロからのスタートではないのだ。去年、不安だったときにずっと聴いていた嵐の「Daylight」の歌詞を思い出した。

誰もが同じ悔しさで 夢の終わりを認めないように
明日はそう 違う自分と 歩いていくから
痛みを抱いて優しさに変えて たとえ胸が張り裂けても
君はもう 自分知っている 歩き出せばほら見えてくる

Daylight - 嵐 - 歌詞 : 歌ネット

自分を知っているから大丈夫だ、と思えるようになったことが、一年の成長なのかもしれない。まだまだ完璧ではないけれど、少しは強くなれたのかな。