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CLOSET

kewpieの個人ブログ。

コントロール

昨日、用事のため家族と親戚と一緒に、日帰りで三重に行ってきた。たぶん、2年ぶりくらい。前々日までその予定を知らなくて、頭の中が混乱していたけど、どうにかなるだろうと思って行くことにした。というか、家に一人で留守番できないので、行くという選択肢しかない…。

車で長距離の移動はこの1年あまりなかったので、どうなることか、とヒヤヒヤしていた。ちょうど去年の今頃くらいに名古屋に行ったのだけど、あれは電車だし、京都から名古屋までは40分くらいだったし…と、過去の経験を引っ張り出して悶々と考えていたけれど、結論から言うと、わりとなんとかなった。たぶん、滅多に来ない親戚も一緒に行ったことで気が紛れたのと、普段あまり聴いていない曲をこの機会にイヤホンで聴いてやろう!と思って、いつも聴いている曲ではなく、滅多に聞かない曲ばかり意図的に聴き込むようにしたので、そちらに意識が集中して不安なことが考えられにくくなったのだと思う。自分だけかもしれないけど、いつも聴いていて安心する曲をどんな時でも聴くようにすると、逆に曲に色がついてしまうというか、あの時すごく不安だったな〜とかマイナスな感情も一緒に思い出してしまうので、不安なときほど普段聴かない曲を聴くようにするといいのかも、と思った。まだ曲に色がついていない状態で、新鮮に聞こえる。

こういう考え方については、この1年の経験によるものが大きいのと、脳は2つ以上のことを同時に並行して考えられない、という情報を聞いたことがあるので、出来るだけその仕組みを活用するようにしよう、と思った。主治医の先生にも、身体感覚のチャンネルを切り替えてみて、という話をされたことがあって、こういう知識は知っていたら役に立つなあ、と思った。そのおかげなのか、完全にたまたまなのか、予期不安はあまりなく、発作も起きなかった。調子がいいことは嬉しいけれど、いつもたまたまでは困るので、原因を見つけていきたい。

行きも帰りも、星野源の曲をずっと聴いていた。星野さんの曲は、基本的に静かな曲が多いので落ち着くし、歌詞の温度感も今の自分の感情に似ているので、共感ができる。最近よく聴くのは「フィルム」で、今回は特に、高速道路の風景とも、自分の感情とも合っていた。

最近はあまりテンションが高い曲を聴く気にはならない。テンションを上げたいときに、意図的に聴くことはあるけれど。

心配だったトンネル乱立区間*1もクリアできたし、自分と同じく留守番ができない犬も一緒に連れて行ったので、こまめに休憩できたのも良かった気がする。せっかくだから、地方の名物とか、そういうものをなにか食べても良かった気がするけど、結局なにも食べなかった。日帰りだからあまり余裕はなかったし。

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ソフトクリーム屋は閉まってたし…。

片道4時間近くかけて母の実家に行くと、当たり前なんだけど誰もいなかった。平日だし、連休でもないし。祖母は数年前に亡くなったから、家はガランとしていて、2年前に行ったときと同じで、正月飾りがついたままだった。家主のいない家というのは魂の抜けた箱のようで、言いようのない寂しさがある。唯一、風景だけは昔と変わっていなくて、そこが救い。

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高い山が続く風景というのは、普段あまり目にしないのでいつ来ても新鮮に感じる。山の麓だから空気が違って、すごく寒い。

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風景は昔のまま変わっていないのに、周りの人々や状況が変わっているのが悲しくて、なんだか感傷深くなった。良い変化ならいいけど、そればかりじゃないからかな。最近、子どものころに永遠だと思っていたものって、全然永遠じゃないんだなあと思ってしまう。人間関係とか、人間そのものとか、色々。年を重ねるごとにそういう経験が増えていくのかと思うと、少し悲しくなる。

今回は実家に帰省することが目的ではなくて、他の用事がメインだったので、実家は早々においとまさせていただいた。用事が終わって、出発したのが7時、帰ってきたのが11時くらい。着いてから、久しぶりに長距離の車移動をしたせいかめまいがひどく、何も食べずに1時間くらい横になっていた。で、寝たのが1時過ぎくらい。radikoで星野源のオールナイトニッポンを少しだけ聴いた。

特に行って何かあったわけではないけど、日帰りで余裕のないスケジュールの車移動にも耐えれたという経験は少し自信になった。片道4時間が大丈夫なら、関西圏ならわりと大丈夫かな、とか目安が立てやすい。ただ、その日の体調に左右されることが多いので、コントロールが上手くできるように頑張っていきたい。今年の目下の課題はそれだ。

*1:閉塞感のせいか、息苦しくなりやすい

続く、続かない

自分の性格というのは、とにかくなにかやりたがるくせに飽き性で、昔からそれで人を振り回している。アイデアだけは無限に思いつくのだけど、いざ実行すると続かないのである。近所に姉の友だちがいて、かれこれ20年くらい遊んでいるのだけど、小学生のときに私が「4コマを描いて冊子にしようよ」と言ったら姉と姉の友だちがノってきて、「いいね、やろう!」と言ってやることになったのだけど、数年経って、真っ先に飽きたのは自分であった。2年くらい前には、同じメンツで私が「ポッドキャストやろうよ」と言った一言がきっかけでポッドキャストを始めたのだけど、これも自分が真っ先に飽きてしまって、今は姉の友だちに任せてしまっている。完全に勢いだけで行動しているので、思いついて起業とかしないほうがいいタイプだと思う。

じゃあなにも続かないのかなと思ってしまうけど、そうではなくて、続いてるものはある。大雑把に言うと、アイドル、デザイン、Twitter、ブログ。だいたいこんな感じ。これらはどれも気負ってなくて、それがいいのかもしれない。Twitterはやめたいと思ってもやめられないし、アイドルについては、最近「idoroot」という、アイドルを語るブログを作ったのだけど、誰に強制されるでもなく連日更新できている。これに関しては、やっと好きなものについて堂々と語れる場ができた!という喜びの方が大きい。

デザインは好きだし、デザインをしないという選択肢がないし、ブログもなんだかんだで好きなので続けてしまう。それはいいのだけど、意気込んでインプットとかアウトプットをしなきゃ!とかって思うと、たちまち出来なくなってしまうのが悩みである。「Record」というデザインについてインプットするブログを作ったのだけど、今のところ続いていない。人間誰でも好きなことは続くと思うけれど、そんな都合よく生きていけないので、どちらかというと苦手なことをどうやったら苦痛にならずに続けていけるのかが最近の目下の悩みである。上記で書いたような、アイデア主体で行動してしまうのも悩み。もうちょっと後先を考えたい。

このブログも、もうちょっとアウトプットを増やす場として作ったのだけれど、今のところあまり出来てなくてどうしたものか、という感じがする。そのときの感情を残すのもいいけど、自分のためのアウトプットの場としても機能させていきたい。

何が言いたいのか分からなくなりました。

ワケありのお弁当

朝、ではなくて、少し寝すぎて昼に起きて、30分くらいぼーっとしていると、母に「お父さんのお弁当食べる?」と言われた。父は連休関係なく働いていて、なぜだかワケありで弁当を置いて行ってしまったらしい。お腹もちょうど空いていたので、食べる、と返事をした。

バッグもそのままに置いて行かれた弁当箱のフタを開ける。弁当を食べるのなんていつ以来かなあ。たぶん高校以来。高校生のときはお弁当を食べるのが唯一の楽しみだった。高校時代は相談室に通っていて、そこでお昼を食べたものだ。お昼の時間、一人で弁当を食べるときだけが唯一リラックスができた。冷めすぎてヒエヒエになった弁当が好きで好きで。梅干しが嫌いなので代わりにシソとか塩昆布を入れてもらって、そのエキスが滲み出たヒエヒエの白米を食べるのが大好きだった。

たまに、クラスの子にお弁当一緒に食べない?と言われても応じたことはなかったな…。

そんなことを色々思い出してしまった。弁当ひとつに色々あるもんだなあ、なんて考えていると、母がお盆を出してその上にお弁当を置いてくれた。父のお弁当は全体の容量が大きく、自分が食べていたひよっ子クラスの弁当よりもボリュームがあった。梅干しの日の丸ごはんに、3種類のおかず、レトルトのチゲの春雨スープ、りんごとトマト、黒豆。驚いたのが、最近のお弁当箱は保熱ができるようになっているので、ヒエヒエにならないのである。それどころかホッカホカであった。そういえば、保熱ができる弁当箱を家族で買いに行った記憶があるのに、今の今まですっかり忘れていた。

お弁当箱を全部開けると、白米のボリュームが特にすごい。成人男性の量なので自分一人では食べきれない。おかずから順に食べて、チゲスープを飲みつつ白米を食べる。おいしい。おかずは普段家で食べているのとさして変わらないのに、弁当箱に入るとどうしてこうも印象が違うのか。「お弁当」という言葉が、特別なパッケージングをしているのか。

最近あんまり食の楽しみを感じなくなって、作業みたいにごはんを食べていた。とりあえずお腹が空いたから、体調が悪くなると困るから…。全部そんなふうだった。それが、お弁当を食べていると、自然にガツガツと食べてしまうし、全身の細胞が活性化されたかのようにイキイキとしてきて、最近あんまり感じていなかった感覚だった。自分の胃腸からは、「もっとよこせ!」と言っているのか、それとも起きていきなりお弁当をぶち込まれてびっくりしたのか、聞いたことのない音が鳴りだした。

お昼にお弁当を食べることがこんなにワクワクする行為だったのを久しぶりに思い出して、次に回想したのはバイト先のまかないランチの記憶だった。作業で脳の糖を使い果たしてヘトヘトになったころ、ちょうど12時半くらいを過ぎてお昼のことしか考えられなくなり、今日のメニューはなんだったっけ、確かあれだったはずだ、と思い出しながら、大行列に並んでいた記憶。疲れたとき、しんどいときにおいしいごはんが出てくるのは全然当たり前ではないんだ、というのは、ここ1年くらいでずっと思っていることである。

ボリュームのある白米の山を崩しにかかるように食べていたところで、胃腸が音を上げた。あまり量を食べなくなってから胃腸が小さくなった気がする。もともと大きいほうでもないけれど。お腹がパンパンになってきたので、申し訳ないけれど残すことにした。ここで、2月に京都で親子丼を注文したとき、全く食べられず鶏に謝りたくなった気持ちが蘇ってきた。ああ、いつかリベンジがしたい。

久々にしっかりと食べた気がして、体の血がきれいになったような感覚がした。食事って、本来はこういうものだよなあ。栄養を吸収するためではあるけど、それだと楽しみがない。

最近「お弁当箱のうた」という曲をみんなのうたで聞いて、懐かしい気持ちになっていたのでタイムリーだった。たまにはお弁当、いいかもしれない。自分一人で作ったことはないから、今度作ってみようかな。

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食べ物の写真を撮るのは上手くないです。

今年の桜

5月を目前にして新緑がぎらつく季節になってきたけれど、そういえば桜の写真を載せようと思って忘れていたなあと思い、いまさら載せることにした。今年の桜は、満開のピークになったころに雨が降って残念だった。去年は、もっと晴れた空の桜を見れた記憶がある。

まずは、早咲きの桜。花びらがピンクで、ソメイヨシノとは違った魅力がある。多分、陽光桜って品種な気がするけど違うのかな。

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この桜は天気が崩れる前に見頃を迎えていたので、青空とのツーショットを撮ることができてよかった。

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これはお馴染みのソメイヨシノ。雨も曇りも晴天も見れて、ある意味よかったのかもしれない。しかし、上手く写真が撮れなかったのでやっぱり悔しい。

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この写真はすごく気に入ってる。写真というよりも場所が好き。なんだか、アーティストのCDジャケットとかに出てきそうだ。伝わらなさそうなニュアンス。

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桜って、完璧な被写体だと思う。こんなにどんな角度でも、どんなシチュエーションでも美しい花はないんじゃないか、と思う。おかげで写真がそんなに上手ではないのに、そこそこ上手に撮れる気がする。

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夕陽と桜は、ただただ美しかった。

来年の桜はもっと色んな場所で見たいな。京都の桜、まだ一回もちゃんと見れてない。奈良の吉野山とかも気になるし、まだまだ見たいところがいっぱいあるなー。欲望まみれの人生を過ごしていきたいですね。

物事の見方

病気になる前、自分はひどく画一的な考え方をしていたように思う。すべての物事が黒か白か、といった塩梅で、頑固なまでにルールめいた考え方を自分に適用させていた。そこから少しでも逸れると、自分がダメ人間のように思えて、上手く行かないとひたすら責めた。変なところで一つの考え方に固執してしまう癖があり、「なんで普通の人なら上手く出来ることが、自分は上手く出来ないんだろう」と毎日考えていた。人と喋るとき、仕事をしているとき、家でちょっとしたことをしているとき、どの時間でも常にその考えが頭の中にあった。ここで出てくる「普通の人」というのにははっきりとしたモデルがない。自分の中で勝手に作り上げた「普通の人」なのだろう、と思う。ずっとその「普通の人」になりたくて仕方がなかった。上手く喋れない、上手く仕事ができない、上手く立ち回れない自分を認めれない。今自分にあるものをすべて捨てて「普通の人」になりたかった。

病気になってから、徐々にその思考が崩れていった。周りを見渡してみたって、「普通の人」なんて、どこにもいないのではないか。幻想のようにすがっていた「普通の人」というモデルが実はどこにもいなかった、ということに気がついた。そして、自分がダメだと思い込んでひたすら捨てようとしていた性格は、「気質」というものに分類できる、ということを知った。そう思ってからは、自分を嫌うことなく、ある程度許容ができるようになった。

最近、1年前、2年前とは考え方が180度変わったな、と思う。一番変わったところで言うと、生き方を貪欲に探すようになった。1年前まではデザイナーになること以外ありえないし、多角的に物事を捉えようとしなかったように思えるけれど、その辺はがらっと変わったんじゃないかなーと思う。昔は自分で見たもの、聞いたもの以外は信じない、と思ってしまう頑固さがあったのだけれど、人の経験談とかを好んで聞きたくなったり、見たくなったりしている。どうやって生きていくか、ということについて、深く考えるようになった。デザインに対しての見方も変わった気がするし、辛いときは本当に自分に対して悪い見方しかできないけれど、長期的に見たらこれは自分が成長するためのひとつの過程だったのではないか、なんて思える。転ばないように、ではなく、転んでもまた起き上がれるために成長する必要があったのではないか。

最近、星野源さんの「地獄でなぜ悪い」という曲を聴いていて、ああこれは他のどんな人にも歌えないな、と思った。その人の経験を描いた詩というものは、その人以外歌えない気がする。そういうものを作っていきたい。自分の経験をクリエイティブに落とし込んで、昇華していけたらな。

嘘で出来た世界が  目の前を染めて広がる
ただ地獄を進む者が 悲しい記憶に勝つ
作り物だ世界は 目の前を染めて広がる
動けない場所から君を 同じ地獄で待つ
同じ地獄で待つ

地獄でなぜ悪い - 星野源 - 歌詞 : 歌ネット